2022年 08月 09日
長谷寺の創建は奈良時代。その後、火事と再建が繰り返され、現在の本堂は9棟目、 1650年、徳川家光の寄進による。平均すると100年ごとの建替え。そして、御本尊 の「十一面観音」も焼失と復活を繰り返し、現在のものは8代目。なんという執念 だろう。名刹の中でもこの甦生の回数は一二を争う。 不死鳥のように蘇る長谷寺は、伊勢神宮との関係抜きには語れない。中世に本地 垂迹説が広まると、伊勢神宮の祭神「天照大神」は「十一面観音」とされた。だか らか、江戸の終わりまで「伊勢参り」と「長谷参り」はセットだった。初瀬街道 が両者を結び、互いに牽引したのだろう。それが証に、「十一面観音」の左には 小さな「雨宝童子」(うほうどうじ=天照大神16歳の化身)が寄り添う。長谷寺 が廃仏毀釈を免れたのは、このような背景があったからだろう。 ![]() 「日本建築の空間」(S D選書・井上充夫)には、「礼拝する対象(仏像)は、時代 が下ると共に後ろへ遠のく。」とある。長谷寺・本堂の変遷は不明だが、現在の間取 りはその「遠のいた結果」の(日本一の)典型だろう。 歴代住職は、寺の繁栄を願っていた。誰かが「観音さま」の権威付けを思いつき、民 から引き離すことにした。「観音さま」は建替えのたびに遠のき、しかし、そのこと で民の信仰心はますます強くなり、寺は賑わった。だから、この思いつきは大当たり だった。 こうして、堂内に奥行きが生じ、幾重もの空間が連なった。それぞれの空間(内々陣、 内陣、外陣、相の間、礼堂、舞台)にはスペースに応じた架構が組まれ、「観音さま」 のショーケースが威風堂々、完成した。 ご本尊「十一面観音」は、いちばん奥の特等席で、まるで箱入り娘のように微笑んで いる。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ #
by motoki8787
| 2022-08-09 10:19
| 建物雑記
|
Comments(0)
2022年 05月 17日
作家・庄野潤三(1921~2009)邸を取材、実測しました。久しぶりのことでした。 庄野邸は、築62年の木造平屋建て。驚くほど当時の様子がそのままでした。作家 と家族の団結がこの家を守ってきました。家族の「住まいへの向き合い方」に脱 帽です。 恥ずかしながら、庄野潤三のことは全く知りませんでしたが、初めて、代表作 「夕べの雲」(1965年)を読み、すぐにファンになりました。日々の生活が淡々 と、しかし生き生き語られ、この作風は誰かに似ているなあ・・と考えるうちに、 吉村順三の穏やかな作風が重なりました。奇を衒うことなく、ごまかしがなく、 「当たり前」の丁寧な積み上げ。 「平屋の家は、庭との関係を抜きには語れない。」と今回は庭の実測にも挑戦。 雑木林状態だったので、すったもんだでした。樹木の名前が未だに言い当てられ ず、これはもう(人生)間に合いません。 ![]() 当初、実測図に「夕べの雲」情報を詳細に書き込み、この代表作の「手引き図」 にしようと考えました。というのも、「夕べの雲」は庄野邸を舞台とし、家や庭 の描写がたくさん登場するからです。・・が、これは紙面の都合で見送りに。 いつか、古舘伊知郎の実況ナマ中継的・実測図を完成させたいものです。 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
#
by motoki8787
| 2022-05-17 13:36
| お仕事
|
Comments(0)
2022年 04月 19日
少年の頃、TVから流れる「女ひとり」(作詞;永六輔、作曲いずみたく、1965年) を聴きました。 ♪ 京都 大原 三千院 恋に疲れた女が一人・・ 何度か聴くうちに、この出だしが耳に残り、いつの間にか大原とは三千院のこと だと思うようになりました。そして、それはつい最近まで。 ところが‥実はコレが大間違いだったのです。 大原に古くからあるお寺は三千院ではなく、図中の赤い卍印の3つのお寺です。 つまり、「勝林院」「来迎院」「往生極楽院」。この3つとその支院は、まとめ て「大原寺(ダイゲンジ)」と呼ばれ、地名のオオハラはここに由来します。 創建は平安時代。中でも、参道の突き当たりの「勝林院」は、今は貧乏寺です が、江戸末期までは有力寺院で、(BS番組によると)小さな土蔵は宝物で溢れて います。 三千院は門跡院(皇族が住職を務める寺)ですから資力があり、その境内は、群 を抜いて広い。境内にある小さなお堂「往生極楽院」の「阿弥陀三尊像」は迫力 十分の国宝です。しかし「往生極楽院」はもともと独立した寺院だったところ、 三千院に乗っ取られ、併合の憂き目にあいました。 「三千院」はおそらく跡目争いに忙しかったのでしょう、平安時代からその屋号 と場所を何度も変えました。相続問題と度重なる引越しに疲れ、ようやく京都の 奥地に辿り着いたのかもしれません。 だとすれば、その様子はまるで「恋に疲れた女」ではありませんか!三千院の悲 哀がこの歌に重なり、今はこの歌をシミジミ聴いています。 大原には他に「寂光院」があります。斜面地に建つ小さな尼寺は手入れが行き届き、 まるで箱庭のよう。ここは建礼門院(壇之浦・安徳天皇の母)が余生を過ごした ところ。 Discover Japanの頃、大原には若い女性が押しかけ、あそこはミーハー向け(と いうと怒られる)の観光地と決めつけましたが、今は、鄙びた風景の中に、その 歴史の息づかいを(これまたシミジミ)感じている次第です。 , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , #
by motoki8787
| 2022-04-19 20:50
| 風景・街あるき
|
Comments(2)
2022年 04月 09日
BSで白井晟一の番組を見ました。渋谷・松濤美術館の展覧会に合わせ、放送され たもの。 番組の中で、藤森照信が「白井は人をたぶらかせるのが上手だった。自身を神格 化するのも上手だった。」と解説。ドキッとするぐらい失礼な云い方ですが、し かし藤森さんはズバリ、白井晟一の本質を衝きました。そして、「その振る舞い こそが、実はモダニズムへのアンチテーゼだった。」と続け、(ちゃんと)白井 の存在意義を称えました。 白井建築は、西洋古建築のモチーフを編集した私小説。ところが、その寄せ集め 方に手法、関係性を見つけることが難しく、従って、作品を評することが難しい のです。性急に「あれは、ハリボテ」と喝破する人もいるぐらい。さすがの藤森 さんも作品そのものに言及できず、「振る舞い」を炙り出すだけで精一杯でした。 実は学生時代、「神格化された白井」にすっかり心酔してしまった。いとも簡単 にたぶらかされ、「白井建築にあらずんば建築にあらず」状態でした。白井親分 と一方的に盃を交わし、設計製図の課題では粛々と親分の流儀に従いました。 これは学生時代の課題「オフィスビル」。当時、白井が佐世保に完成させた親和 銀行(懐霄館)の影響を受け、というより、そのマンマを焼き付けたのでした。 マッコト恥ずかしく、汗顔の至りです。 今思い返すと、白井建築に惹かれていたのではなく、白井の難渋な哲学的言説に 溺れていました。「難しく深淵な世界を背景に持つ建築こそ、格調高く美しい。」 と勘違いしていたのです。コルビジェ、ライト、ミース、カーンなどには目もく れず、もっとも多感な時期にもっとも偏狭・偏屈な白井世界に溺れ、まったくも って迂闊でした。 卒業後、鈴木恂先生のアトリエに入所し、すぐにこの幻想世界から目覚めました が、今でも白井を引きずっていることが1つだけあります。 かつて白井は「眼球は球体であるから、その球体に添えるレンズのカタチは真円 こそがふさわしい。」と真円メガネを推奨し、他のデザインを退けました。こ の考え方には今でも賛同でき、学生時代から長く、真円メガネを愛用しています。 身に着ける服飾品にはいつも悩みますが、こと眼鏡に関しては、今後も「かつて の親分」の教えを忠実に守ります。
#
by motoki8787
| 2022-04-09 19:11
| デザイン
|
Comments(0)
2022年 01月 12日
石鎚山は西日本の最高峰(標高1982m)で、日本七霊山の一つとして知られる山岳 以下、時代ごとの状況
![]() 近代 <石鎚神社の誕生(はタナボタ式)> 神仏分離令が発令され、8合目の②「常住社」(奥・前神寺)は破壊された。 その場所には「石鎚神社」の「成就社」が建てられ、頂上までを神域とし独占 した。と同時に、麓の③「里・前神寺」も「石鎚神社」が乗っ取り、今に至る。 つまり、「石鎚神社」はかつての「前神寺」に自らの社殿を上書きし、石鎚信 仰を棚ぼた式で手に入れた。 「石鎚神社」の初代宮司は、「前神寺の廃寺」を通達した小役人だった。ニワカ 宮司は「蔵王権現像三体」に習い「神像三体」を考案し、民衆の人心掌握を試み たが・・。 現代 <石鎚本教の誕生。原点回帰へ> 民衆は「神像三体」を信仰の対象としたが、時間の経過と共に不満が募る。 「鎖場を登らないウラナリ宮司は我々のリーダーではない!ワシらの信仰は神仏 混淆、修験道、加持祈祷のゴチャ混ぜやから、国家神道には馴染まんのや。」 こうして昭和24年、石鎚信仰の特殊性を生かすべく、「石鎚神社」と並列し「石 鎚本教」が設立され、原点回帰が始まった。石鎚信仰はあまりに豪胆だったから、 その管理は国家神道の手に負えなかった。 一方、「前神寺」は明治22年(1889年)、かつての境内のすぐそばで復興し、現 在に至る。境内の権現堂に蔵王権現・三体を祀り、往時の別当としての存在意義 が戻りつつある。 特記 ロープーウェイ駅舎の直ぐそばに小さな広場がある。そこには石鎚信仰に登場するすべての役者(三仏、三権現、三神像、そして空海や狛犬など)のブロンズ像 が勢揃いし、石鎚信仰へのオマージュが沸騰し、見応え十分。 ここは「石鎚教・奥の院」とされ、「石鎚神社」にも「石鎚本教」にも属さない 個人の方が運営しているようだ。(関係者に確認済み) #
by motoki8787
| 2022-01-12 21:16
| 風景・街あるき
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||