奥沢文庫
2022-09-23T18:49:15+09:00
motoki8787
「金沢文庫」への オマージュ
Excite Blog
奈良・長谷寺へ(観音様のショーケース)
http://motoki8787.exblog.jp/32755862/
2022-08-09T10:19:00+09:00
2022-09-23T18:49:15+09:00
2022-08-09T10:19:14+09:00
motoki8787
建物雑記
長谷寺の創建は奈良時代。その後、火事と再建が繰り返され、現在の本堂は9棟目、1650年、徳川家光の寄進による。平均すると100年ごとの建替え。そして、御本尊の「十一面観音」も焼失と復活を繰り返し、現在のものは8代目。なんという執念だろう。名刹の中でもこの甦生の回数は一二を争う。
不死鳥のように蘇る長谷寺は、伊勢神宮との関係抜きには語れない。中世に本地垂迹説が広まると、伊勢神宮の祭神「天照大神」は「十一面観音」とされた。だからか、江戸の終わりまで「伊勢参り」と「長谷参り」はセットだった。初瀬街道が両者を結び、互いに牽引したのだろう。それが証に、「十一面観音」の左には小さな「雨宝童子」(うほうどうじ=天照大神16歳の化身)が寄り添う。長谷寺が廃仏毀釈を免れたのは、このような背景があったからだろう。 「日本建築の空間」(S D選書・井上充夫)には、「礼拝する対象(仏像)は、時代が下ると共に後ろへ遠のく。」とある。長谷寺・本堂の変遷は不明だが、現在の間取りはその「遠のいた結果」の(日本一の)典型だろう。
歴代住職は、寺の繁栄を願っていた。誰かが「観音さま」の権威付けを思いつき、民から引き離すことにした。「観音さま」は建替えのたびに遠のき、しかし、そのことで民の信仰心はますます強くなり、寺は賑わった。だから、この思いつきは大当たりだった。
こうして、堂内に奥行きが生じ、幾重もの空間が連なった。それぞれの空間(内々陣、内陣、外陣、相の間、礼堂、舞台)にはスペースに応じた架構が組まれ、「観音さま」のショーケースが威風堂々、完成した。
ご本尊「十一面観音」は、いちばん奥の特等席で、まるで箱入り娘のように微笑んでいる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ]]>
別冊・太陽 小さな平屋に暮らす
http://motoki8787.exblog.jp/32674821/
2022-05-17T13:36:00+09:00
2022-05-21T09:36:32+09:00
2022-05-17T13:36:06+09:00
motoki8787
お仕事
作家・庄野潤三(1921~2009)邸を取材、実測しました。久しぶりのことでした。庄野邸は、築62年の木造平屋建て。驚くほど当時の様子がそのままでした。作家と家族の団結がこの家を守ってきました。家族の「住まいへの向き合い方」に脱帽です。恥ずかしながら、庄野潤三のことは全く知りませんでしたが、初めて、代表作「夕べの雲」(1965年)を読み、すぐにファンになりました。日々の生活が淡々と、しかし生き生き語られ、この作風は誰かに似ているなあ・・と考えるうちに、吉村順三の穏やかな作風が重なりました。奇を衒うことなく、ごまかしがなく、「当たり前」の丁寧な積み上げ。「平屋の家は、庭との関係を抜きには語れない。」と今回は庭の実測にも挑戦。雑木林状態だったので、すったもんだでした。樹木の名前が未だに言い当てられず、これはもう(人生)間に合いません。 当初、実測図に「夕べの雲」情報を詳細に書き込み、この代表作の「手引き図」にしようと考えました。というのも、「夕べの雲」は庄野邸を舞台とし、家や庭の描写がたくさん登場するからです。・・が、これは紙面の都合で見送りに。いつか、古舘伊知郎の実況ナマ中継的・実測図を完成させたいものです。.
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京都・大原・三千院
http://motoki8787.exblog.jp/32650796/
2022-04-19T20:50:00+09:00
2022-06-03T18:31:44+09:00
2022-04-19T20:50:02+09:00
motoki8787
風景・街あるき
創建は平安時代。中でも、参道の突き当たりの「勝林院」は、今は貧乏寺ですが、江戸末期までは有力寺院で、(BS番組によると)小さな土蔵は宝物で溢れています。
で、三千院は、と云えば、明治になり大原に割り込んできた新参者だったのです。三千院は門跡院(皇族が住職を務める寺)ですから資力があり、その境内は、群を抜いて広い。境内にある小さなお堂「往生極楽院」の「阿弥陀三尊像」は迫力
十分の国宝です。しかし「往生極楽院」はもともと独立した寺院だったところ、
三千院に乗っ取られ、併合の憂き目にあいました。「三千院」はおそらく跡目争いに忙しかったのでしょう、平安時代からその屋号と場所を何度も変えました。相続問題と度重なる引越しに疲れ、ようやく京都の奥地に辿り着いたのかもしれません。だとすれば、その様子はまるで「恋に疲れた女」ではありませんか!三千院の悲哀がこの歌に重なり、今はこの歌をシミジミ聴いています。大原には他に「寂光院」があります。斜面地に建つ小さな尼寺は手入れが行き届き、まるで箱庭のよう。ここは建礼門院(壇之浦・安徳天皇の母)が余生を過ごしたところ。Discover Japanの頃、大原には若い女性が押しかけ、あそこはミーハー向け(というと怒られる)の観光地と決めつけましたが、今は、鄙びた風景の中に、その歴史の息づかいを(これまたシミジミ)感じている次第です。
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白石晟一のこと
http://motoki8787.exblog.jp/32641473/
2022-04-09T19:11:00+09:00
2022-05-31T10:12:09+09:00
2022-04-09T19:11:13+09:00
motoki8787
デザイン
たもの。
番組の中で、藤森照信が「白井は人をたぶらかせるのが上手だった。自身を神格
化するのも上手だった。」と解説。ドキッとするぐらい失礼な云い方ですが、し
かし藤森さんはズバリ、白井晟一の本質を衝きました。そして、「その振る舞い
こそが、実はモダニズムへのアンチテーゼだった。」と続け、(ちゃんと)白井
の存在意義を称えました。
白井建築は、西洋古建築のモチーフを編集した私小説。ところが、その寄せ集め
方に手法、関係性を見つけることが難しく、従って、作品を評することが難しい
のです。性急に「あれは、ハリボテ」と喝破する人もいるぐらい。さすがの藤森
さんも作品そのものに言及できず、「振る舞い」を炙り出すだけで精一杯でした。
実は学生時代、「神格化された白井」にすっかり心酔してしまった。いとも簡単
にたぶらかされ、「白井建築にあらずんば建築にあらず」状態でした。白井親分
と一方的に盃を交わし、設計製図の課題では粛々と親分の流儀に従いました。
これは学生時代の課題「オフィスビル」。当時、白井が佐世保に完成させた親和
銀行(懐霄館)の影響を受け、というより、そのマンマを焼き付けたのでした。
マッコト恥ずかしく、汗顔の至りです。
今思い返すと、白井建築に惹かれていたのではなく、白井の難渋な哲学的言説に
溺れていました。「難しく深淵な世界を背景に持つ建築こそ、格調高く美しい。」
と勘違いしていたのです。コルビジェ、ライト、ミース、カーンなどには目もく
れず、もっとも多感な時期にもっとも偏狭・偏屈な白井世界に溺れ、まったくも
って迂闊でした。
卒業後、鈴木恂先生のアトリエに入所し、すぐにこの幻想世界から目覚めました
が、今でも白井を引きずっていることが1つだけあります。
かつて白井は「眼球は球体であるから、その球体に添えるレンズのカタチは真円
こそがふさわしい。」と真円メガネを推奨し、他のデザインを退けました。こ
の考え方には今でも賛同でき、学生時代から長く、真円メガネを愛用しています。
身に着ける服飾品にはいつも悩みますが、こと眼鏡に関しては、今後も「かつて
の親分」の教えを忠実に守ります。
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石鎚山(四国)の信仰事情
http://motoki8787.exblog.jp/32547269/
2022-01-12T21:16:00+09:00
2022-05-31T10:16:22+09:00
2022-01-12T21:16:00+09:00
motoki8787
風景・街あるき
以下、時代ごとの状況古代~中世<「瓶ヶ森」と「天河寺」が信仰を担っていた。>680年頃、どの霊山にも登場する役行者(エンノギョウジャ)が近くの「龍王山」に籠り修行を始めた。彼はある時、「石鎚山」にたなびく紫雲の中に「三尊仏」を幻視し、その三仏を「三権現」に読み替えた。そしてそれらを霊木に刻み三体の御本尊を完成させ、「天河寺(テンガイジ)」を開いた。「天河寺」は室町末期(1350年)、兵火により焼失するが、御本尊の分霊が「瓶ヶ森」(カメガモリ)へ遷座され、その後暫くは「瓶ヶ森」が信仰の対象となる。「天河寺」の法灯は「極楽寺」に継承され今に至る。その頃から「横峰寺」、「前神寺」が台頭する。近世 <石鎚山信仰は「前神寺」によって完成した。>江戸時代初期、「前神寺」が石鎚山の別当として頭角をあらわす。山頂に①「頂上社」、8合目に②「常住社」(奥・前神寺)、麓に③「里・前神寺」を置き、この三社が石鎚信仰の中心的役割を果たした。それぞれには「三権現」が勧請された。「前神寺」は一時、別当権をめぐり「横峰寺」と争うが、江戸時代中期にはその権利を確実なものとし、明治維新まで大いに繁栄する。里・前神寺は四国霊場第64番札所でもあり、参拝したお遍路さんにより石鎚信仰が各地に伝わった。 かつて、登拝道(石鎚山道)には「西条藩」領の今宮道と「小松藩」領の黒川道があり、道沿いの集落は多くの宿坊で賑わった。 近代 <石鎚神社の誕生(はタナボタ式)>神仏分離令が発令され、8合目の②「常住社」(奥・前神寺)は破壊された。その場所には「石鎚神社」の「成就社」が建てられ、頂上までを神域とし独占した。と同時に、麓の③「里・前神寺」も「石鎚神社」が乗っ取り、今に至る。つまり、「石鎚神社」はかつての「前神寺」に自らの社殿を上書きし、石鎚信仰を棚ぼた式で手に入れた。「石鎚神社」の初代宮司は、「前神寺の廃寺」を通達した小役人だった。ニワカ宮司は「蔵王権現像三体」に習い「神像三体」を考案し、民衆の人心掌握を試みたが・・。現代 <石鎚本教の誕生。原点回帰へ>民衆は「神像三体」を信仰の対象としたが、時間の経過と共に不満が募る。「鎖場を登らないウラナリ宮司は我々のリーダーではない!ワシらの信仰は神仏混淆、修験道、加持祈祷のゴチャ混ぜやから、国家神道には馴染まんのや。」こうして昭和24年、石鎚信仰の特殊性を生かすべく、「石鎚神社」と並列し「石鎚本教」が設立され、原点回帰が始まった。石鎚信仰はあまりに豪胆だったから、その管理は国家神道の手に負えなかった。一方、「前神寺」は明治22年(1889年)、かつての境内のすぐそばで復興し、現在に至る。境内の権現堂に蔵王権現・三体を祀り、往時の別当としての存在意義が戻りつつある。
特記
ロープーウェイ駅舎の直ぐそばに小さな広場がある。そこには石鎚信仰に登場するすべての役者(三仏、三権現、三神像、そして空海や狛犬など)のブロンズ像が勢揃いし、石鎚信仰へのオマージュが沸騰し、見応え十分。ここは「石鎚教・奥の院」とされ、「石鎚神社」にも「石鎚本教」にも属さない個人の方が運営しているようだ。(関係者に確認済み)]]>
美濃の左回り (石徹白へ)
http://motoki8787.exblog.jp/32297301/
2021-05-29T14:12:00+09:00
2022-01-06T20:48:10+09:00
2021-05-29T14:12:41+09:00
motoki8787
風景・街あるき
ところで、どこの山岳信仰においても、黎明期には修験者・山伏らが必ず登場する。彼らは進んで深山、道なき道を切り開く役目を担った。難しい経典を学ぶこ
とより、厳しい自然の中、身体の鍛錬を通し世界観・宗教観を作り上げることが
彼らの性に合っていた。
彼らが一通り地ならしを終えた後に僧侶が乗り込み、そのあとを追ったのが神職
だったような気がする。だから、修験者は日本の宗教の生みの親とも言え、神仏
習合が展開したのも彼らの存在に依るところが大きかったのではなかろうか。
「長滝白山神社」は、明治の大火で堂宇を焼失する。その後、伊勢の「神明造」(シンメイヅクリ)モドキに再建されるが、美濃の山奥に忽然と姿を現す「神明造」はいかにも唐突だ。これは、明治新政府が「国家神道の頂点」とした伊勢神宮のレプリカ造営を全国各地に奨励した成果だと云うから、これまたいかにも滑稽だ。「美濃禅定道」は、「石徹白」(イトシロ)からいよいよ山の中へ分け入る。「石徹白」は江戸時代までベースキャンプとして多数の宿坊で賑わい、美濃における白山信仰の最も重要な拠点だった。天領地とされ、年貢は免除されていた。標高700m、現在の人口は僅か270人程度。「石徹白」は扇状地なのだろう、集
落全体が緩やかな傾面に載り、点在する杉の群生が景観を特徴づけている。その「石徹白」でも最も奥に位置する「上在所」(カミザイショ)地区には社殿
(白山中宮神社)が建つ。白山へのルート上、人里にある最後の社殿は、とりわ
け神聖な存在だった。現在も「上在所」の境には道路上空を横断する注連縄が張
られている。神仏分離令が発令された時、「石徹白」でも騒動が起き、集落は二分された。
「上在所」の神職らは社殿を占拠し、仏像・仏具の一部を焼き払った。そのような
不幸な歴史があったからか、もう150年も前なのに、「上在所」には、どことなく
よそよそしく、排他的とでも言ったら良いのか、そんな気配を感じた。その後、廃仏毀釈をまぬがれた仏像・仏具が、今は「中在所」の大師堂(泰澄大師)に保存されている。「禅定道」の要所に祀られていた様々な仏像も山から降り収容され、白峰(福井県)・林西寺の下山仏(ゲザンボトケ)と共に白山信仰の遺産として残る。
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仏壇計画 ① Gateway to the Paradise
http://motoki8787.exblog.jp/32180224/
2021-03-09T12:05:00+09:00
2021-08-17T21:41:18+09:00
2021-03-09T12:05:50+09:00
motoki8787
デザイン
浄土」がある、などと考えていたところ、友人から「二河白道(にが びゃくどう)」
の話を聞く。「白道」とは河を渡る、僅か5寸幅の白い道=橋のこと。「白道」は向こう岸の「極楽浄土」へ通じ、燃え盛る「火の河」と逆巻く「水の河」に挟まれる。民衆がこの「白道」を渡り「極楽浄土」を目指すところ、火と水が押し寄せ、歩みが
滞る。これを向こう岸から阿弥陀さまが招き、手前からお釈迦さまが励まし背中
を押す。
つまり、「二河白道」とは「極楽浄土」への大往生を願う民衆を助ける舞台装置
のこと。
この教えを知り、仏壇を「二河白道」の玄関口(gateway)に見立てることにした。つまり、民衆はこの玄関口で一旦、気持ちを整え、極楽浄土を目指す。そのためには仏壇内部に順路を計画し、それを巡った後にいよいよ白道へ挑んで頂くことにする。中に順路ができれば、これはまるで建築のようでもある。(仏壇建築) 我が家の仏壇が、このように公共的にも重要な役割を果たすことになれば、これは、代々伝えるに足る仏壇となるに違いない。.
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「押出し羊かん」(甘納豆かわむら)
http://motoki8787.exblog.jp/32115385/
2021-01-23T19:52:00+09:00
2021-01-23T19:52:05+09:00
2021-01-23T19:52:05+09:00
motoki8787
食べた・飲んだ
(北海道)五勝手屋羊羹 ふうきようかん 熊石ようかん 比布羊かん 白樺羊かん さくら羊かん(秋田) 桜皮羊かん(福島) 湯の花ようかん(新潟) ちじみ羊かん(石川) 弁慶羊かん YOKAN(富山) 万金丹ようかん(神奈川)熱海さくら羊かん(静岡) 川根のお茶ようかん(高知) 竹林寺ようかん(佐賀) 稲荷ようかん]]>
越前・加賀の左回り
http://motoki8787.exblog.jp/32088392/
2021-01-06T14:57:00+09:00
2021-02-25T20:23:36+09:00
2021-01-06T14:56:59+09:00
motoki8787
風景・街あるき
だけ。その神社とは、「平泉寺 白山神社(へいせんじ はくさんじんじゃ)」のこと。神社の名称に寺の名が付くから、そもそもが妙な神社。それもそのはず、現在、神社とは名ばかりでその活動・営業は一切なく、ただただ、苔むした跡地が静かに広がる。明治以降、代々の宮司は政治家、学校の先生などを勤め、神職を放棄してきたらしく、そのようなことから往時の寺の名前が残ったのだろう。境内のドンズマリに白山・御前峰へ至る「越前禅定道」の入口が残るが、藪に覆われその先に進めるような気配はなかった。付近に宿坊などの痕跡もなく、往時の賑わいを想像することは難しく、その意味で物足りなかった。※他の2つの起点(まだ行っていない)のこと。 「加賀禅定道」の起点は「白山比咩神社・しらやまひめじんじゃ」という。 ここは、全国にある白山神社の総本社であり、今も加賀國一ノ宮として賑わ
っている。ここは神仏分離の発令を受け、神道一色に染まってしまったのだ
ろう、恐らく神仏習合の痕跡を抹消している。だとすれば、面白味に欠ける。 その点、「美濃禅定道」の起点には、長龍寺と長滝白山神社が今も同居する
から興味深い。近くには「石徹白・いとしろ」という集落があり、宿坊が残
るらしい。ここは是非訪れてみたい。
ついでの物見遊山🔳一乗谷2つの庭園跡(南陽寺跡・湯殿跡)は戦国時代に作られたからか、石組みは荒々しく力強い。生き生きとし今にも動きだしそう。重森三玲・しげもりみれい はここからインスピレーションを受けたはず。🔳永平寺永平寺は山腹に建つから、伽藍は斜面を駆け上がる。巨大な境内には風格があっ
た。かつて日本が手本とした中国寺院の残り香だろう。若い雲水が観光客の目を
気にせず、黙々と作法の練習をしていた。昔から続く修行に永平寺の鼓動を感じた。
🔳白峰(しらみね) 重伝建白峰は標高400m程度だが、豪雪地帯。殆どの屋根に融雪装置が載っている。中には温風を吹き出すパイプが敷設される例も。かつて白峰は「先進的な養蚕」で栄えた。「先進的」とは残雪を利用して蚕の成長をコントロールし、こっそり2毛作を実現したこと。表の商いとは別に、余剰を裏ルートでさばき、村は大いに潤ったらしい。白峰からも白山・御前峰へ至る登坂道があり、途中、「越前禅定道」と合流する。林西寺には廃仏毀釈を免れた下山仏(白山本地仏)が安置される。隣の八坂神社(かつては薬師堂)の小さな本殿には薬師如来三尊が神仏習合の痕跡として祀られているらしい。とても珍しいが、見ること叶わず。🔳那谷寺(なたでら)那谷寺は真言宗の寺院だが、僧侶の気配は全く感じられない。境内には池や庭園、奇岩、社殿が賑やかに並んでいる。ここは、新緑と紅葉の美しい「庭園型・観光寺院」だろう。
🔳九谷焼(くたにやき)九谷焼は有田焼と同様、陶土ではなく陶石をこねる。九谷焼の初期の「古九谷」は、実は、佐賀県の有田で焼かれた、という「古九谷論争」がある。かつて、佐賀県と福井県はこの文化財を巡り本気の喧嘩をした。🔳三國湊(みくにみなと)九頭竜川の河口の町だったから、かつては舟運で大いに栄えた。が、北陸本線のルートからはずれてしまったことで、一気に衰退。今は東尋坊と蟹料理で何とか持ちこたえている。🔳白山(はくさん)白山は泰澄・たいちょう(682〜767年)が開山した。同じ頃、勝道上人・しょうどう(735〜817年)は日光山を、役小角・えんのおづの(634〜701年)が吉野・金峯山を開山している。
先ず修験道が地ならしを終え、その後、仏教と神道が続く・・・。白山でもそんな日本の宗教事情の始まりを思った。
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ヘソを狙う風(バルミューダ製 お座敷扇風機 The Green Fan)
http://motoki8787.exblog.jp/31347129/
2020-09-02T11:48:00+09:00
2020-09-02T11:48:49+09:00
2020-09-02T11:48:49+09:00
motoki8787
デザイン
この扇風機のファンの中心高さは床から71センチが標準。丁度、「食卓テーブル」と同じだが、シャフトを抜き取るとその高さは33センチまで下がり、「座卓」の高さにまで下げられる。ここまで低くカスタマイズできる扇風機は他になく、この日本的な姿には「お座敷扇風機」と名付けたい。重心が低く端正なデザインは数奇屋インテリアにも似合うだろう。注目すべきは、シャフトの伸縮機能を省き、そしてシャフトを分割したことが「お座敷扇風機」の誕生を招いたこと。新しいコンセプトは狙おうとして狙えるものではない。設計条件の取捨選択を通し、過程の中で姿を現わすものだ。だから、場合によっては、コンセプト探しのために設計条件を組み替えることだって許される。きっとバルミューダはこれを実践している。ところで、「食卓テーブル」の高さと「座卓」の高さ、これらはいずれも座った時の「お臍の高さ」であり、つまり、この扇風機は身体の中心であるおヘソに照準を合わせ、風を送り込む。このことは、扇風機がそもそも涼感の取得を目的としているから理に叶い、扇風機の設計原論と言える。原理原則をないがしろにしないデザインにはいつも信頼感がある。
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なんちゃって鴨南蛮そば
http://motoki8787.exblog.jp/31326696/
2020-08-19T13:55:00+09:00
2020-08-26T06:17:52+09:00
2020-08-19T13:55:32+09:00
motoki8787
食べた・飲んだ
麺にそば粉は入っているが、先に小麦粉が表記されているから、ほとんど小麦粉だろう。そこに色々が添加され、見た目と味は更科風。 「老舗の本格」を知らずとも、思わず「これぞ本物!」と勘違いさせてしまう、それほど完成度が高いと云うべきか、または、騙しのテクが高いと云うべきか。添加物のてんこ盛りは問題だが、しかしあまりの美味しさ・香ばしさにここでは目をつぶる。・
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十津川の柚餅子
http://motoki8787.exblog.jp/31115594/
2020-03-28T17:10:00+09:00
2020-04-20T16:49:57+09:00
2020-03-28T17:10:37+09:00
motoki8787
食べた・飲んだ
たいていの場合、材料は7~8種類止まりだが、十津川の柚餅子は12種にも及ぶ。中でも特筆すべきは<椎茸・昆布・鰹節>、つまり三大旨味成分(グアニル酸・グルタミン酸・イノシン酸)が加わること。海のものを加えたのは、数ある柚餅子の中でも、十津川だけ。さらに云えば、<椎茸・昆布・鰹節>はかつて、神饌(神への供物)として欠かせなかった。ところで、十津川は熊野古道に近いから、熊野を目指した多くの参詣者が往来した。また、修験者、山伏らも十津川に投宿した。だから、柚餅子は彼らの携行食として重宝したに違いない。険しい山中で疲労困憊した彼らは、供物と同じものを口にし、神の加護を得たのかもしれない。十津川村の柚餅子はその昔、ご利益ある保存食として珍重されていたのではないか。
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日光参詣曼荼羅
http://motoki8787.exblog.jp/31099793/
2020-03-17T09:04:00+09:00
2021-10-28T20:29:36+09:00
2020-03-17T09:04:11+09:00
motoki8787
風景・街あるき
その構造は室町時代の末期には既に完成していた。その頃の日光は参詣者で溢れ
かえり、今を凌ぐほどの賑わいだった。
そこに家康が乗り込んできた。
奈良時代、日光修験道の開祖・勝道上人(ショウドウ 735~817年没)が男体山を崇め、山岳修行を始めた。やがてその活動範囲が、女峰山、太郎山など周辺の峰々に広がった。その後、暫くして天台宗、真言宗の僧侶らが入山し、日光は密教
の霊場としても知られるようになる。
山中にある寺社の場合、まず山伏達が山を切り開く。その後、山中での苦行を厭わ
ない僧侶達が続き、最後に、修行とは縁遠い神官達がノコノコ入植する。
鎌倉時代になると、神仏習合が進み、男体山-女峰山-太郎山の三山に、それぞれ神(男体権現-女体権現-太郎権現)と仏(千手観音-阿弥陀如来-馬頭観音)が宿るという「日光三所権現信仰」が生まれた。そして、それぞれの神仏を祀った
三社(新宮-滝尾-本宮)がその役割を分担した。「山と神と仏の関係」が誰にも
分かる図式で完成し、日光は関東における神仏信仰の拠点として室町時代末(~1
568年)には隆盛を極めた。 その後、江戸時代になり家康が墓所を日光に選び、先の三権現に割り込んだ。家康は自らを四番目の東照大権現として神格化し、徳川家の権威付けを果たすが、
権力者が信仰の場、宗教を欲しいままにしたことはゾッとする話ではある。参詣
道が整備され、いつの時代も呑気な民衆は、何の疑問も感じないまま信仰と娯楽
を兼ね、日光詣を楽しんだ。
そのようなところ明治になり、神仏分離令と修験道禁止令が発令され「日光三山」は解体され、社寺は新政府の都合の良いように、つまり政治の為に再編されてしまった。霊場、信仰の場として存在意義を奪われた日光は、止むを得ず、観光地化の道を選び、物見遊山を受け入れることになった。家康と東照宮の絢爛は誰に
とっても分かり易く、戦後は修学旅行のメッカとなる。ところで、明治維新は倒幕を目的としたから徳川勢・日光勢にはつらい事件だった。勢いに乗じた薩長の連中は北上し、こぞって仏殿を焼き払い仏像の首をはねた。そのようなところ、とりわけ日光山の衆徒(天台宗系修験者)がよく立ち回ったのだろう、廃仏毀釈による被害は最小限に留められた。その結果、日光にはかつての神仏習合が色濃く残り、「神仏ごちゃ混ぜ」を体験できる社寺群としては日本一かもしれない。あいかわらず呑気な民衆は今も東照宮の観光を楽しんでいるが、権力者の墓参りだけではいかにも勿体ない。日光へ行くからには、日光が全盛だった頃(室町時代の末期)の歴史遺産こそ楽しみたい。
絵は、室町時代末期(1560年代)、日光山が全盛時代だった頃の様子を描いた
もの。この直後、日光は、秀吉により全ての寺領が没収され、一気に衰退した。
秀吉の勢いが、日光にまで及んでいたことに驚く。
(おまけ 1)日光へは浅草から東武鉄道を利用するイメージがあるが、新宿からJR特急利用も便利。割引が使えると費用はほぼ同じ。(おまけ 2)「日光を見ずして結構というなかれ」この、いかにも広告代理店が考えそうな宣伝コピーは昭和のもの、と勘ぐったが江戸末期の歌舞伎(蔦紅葉 宇都谷峠・文彌殺し)の三幕に「日光を見ぬうちは、けっこうとは言はれぬ」というセリフがある。
※ 東海道五十三次にある宇都谷峠(ウツノヤとうげ)は「麦とろ飯」で知られる鞠子宿 (マリコじゅく)と岡部宿の間にある峠。新幹線・焼津下車(おまけ 3)修験者(山伏)には3つのグループがあったらしい。 修験道一本やり →「行者方」 天台宗系の修験者 →「衆徒方」 神道系の修験者 →「惣方」
日光では「衆徒方」の力が大きかったようだ。
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吉野山へ
http://motoki8787.exblog.jp/31010817/
2020-01-15T14:32:00+09:00
2020-03-19T19:34:13+09:00
2020-01-15T14:32:15+09:00
motoki8787
風景・街あるき
近世までは何と云っても山岳霊場(修験者の修行の場)の玄関口として知られ ていた。飛鳥時代の呪術者・役小角(エンノオヅノ、修験道の開祖)がここを拠 点としたから、修験者にとって「吉野山」はメッカのようなものだった。その象徴は「金峯山寺(キンプセンジ)」の「蔵王堂」であり、この一帯(金峯山・キンプセン)は修験者、行者、山伏達のパラダイスだった。
彼らは「吉野山」(標高300m)から25キロ先の「山上ヶ岳」(標高1719m)を嬉々として往復し、修行に励んだ。彼らは修行により験力、霊力、神通力が備わる、と本気で考えていた。「験力」を得て、衆生の救済を目指すことが目的だっ た。
しかし、「近代化」を目指した明治新政府は、非科学的なもの、呪詛的なもの を葬ろうと、思わず修験道禁止令を発令してしまった。日本が西欧列強を相手に初めてグローバル化を意識した時、臭いものに蓋をするがごとく、慌ててこれらを封印した。日本で独自に生まれた宗教・修験道は大きなダメージを受け瀕死状態となる。
戦後、「金峯山寺」は見事に復活したが、それまでの間、77年間のうちに山岳 霊場の記憶は急激に萎んでしまった。禁止令の元、修験者たちはその文化を細々と継承したが、一旦破壊された文化が十分に息を吹き返すことはなかった。
そんな経緯があるからか、旅の本を漁っても「吉野山」が山岳霊場の玄関口だった記述が殆んど見つからない。
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世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道(熊野古道)」はあまりに広く、フルコース として一度に平らげるには無理がある。そのようなところ、吉野山~山上ヶ岳〜 天川村のエリアはひと括りし易く、アラカルトとして切り分けるには丁度よい。
<以下、しりとり備忘録>
吉野山 は標高約300m、奈良から南へ電車を乗り継ぎ、二時間半。世界遺産 (紀伊山地の霊場と参詣道)の北端にあり、熊野三山へ南下する参詣 道の起点に当たる。 吉野山 は桜の山として知られるが、それは民衆が桜の苗木を献木したから。 吉野山 には金峯山寺(キンプセン ジ)が建つ。
金峯山寺 は修験本宗の本山。仏教でも神道でもなく、修験道の寺。開祖は飛鳥 時代の呪術者・役小角(エンノオヅノ、634年~70 1年)、修験道の 開祖とも言われている。金峯山寺 には巨大な「蔵王堂」が建ち、これまた巨大な三体の蔵王権現が本尊 として祀られている。
蔵王権現 は一見、不動明王に似ているが、仏教の仏とも神道の神ともつかな い日本独自のキャラクター。鮮やかな群青色に塗られているから迫力満点。高さ7M、山桜から彫り出され、だから民衆は競って桜を吉野山に献木した。蔵王権現 は遠く離れたもう一つの「蔵王堂」にも祀られるが、それは「山上ヶ 岳」(標高1719m)山頂に建つ。
「山上ヶ岳」 は吉野山から25キロ離れ、吉野山からこの山までの峰つづきは 「金峯山」(キンプセン)と呼ばれる。二つの「蔵王堂」を往復する 山道が整備され「金峯山」は山岳霊場として栄えるが、やがてこの 道が延伸され熊野三山へも通じる参詣道(奥の駆道)に昇格する。 「山上ヶ岳」 は5月3日に山開きし、9月23日には閉山する。 「山上ヶ岳」 は女人禁制だが、時代遅れとして禁制を解く運動もあるらしい。 「山上ヶ岳」 の西麓には洞川(ドロカワ)温泉(標高820m、天川村)がある。
洞川温泉 は天川村にあり、吉野山からとは別ルートで「山上ヶ岳」をアタックするベースキャンプとして賑わった。洞川温泉 には宿坊が残り、関西圏の山伏、行者、修験者そして、登山愛好家 が今もこの温泉街を利用する。洞川温泉 には龍泉寺があり、この寺が「山上ヶ岳」の「蔵王堂」の管理運営を 任されている。 洞川温泉 の名産品に陀羅尼助丸(ダラニスケガン)がある。
陀羅尼助丸 は関西圏ではよく知られる胃腸漢方薬の丸薬。きはだ(ミカン科 の樹木)のエキスを煮詰めて作る。 陀羅尼助丸 はかつて、それぞれの「製造元」が自由に製造販売されていたが、 薬事法ができて以降、現在は組合が一括製造し「発売元」に卸し ている。発売元はパッケージデザインを競い、そこに独自性を求 めているから面白い。
陀羅尼助丸 は店頭販売されているが、発売元は特定の宿坊と提携し、行者が
宿泊する際に販売の機会を得ているようだ。
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熊野信仰の輻輳
http://motoki8787.exblog.jp/30971388/
2019-12-18T15:15:00+09:00
2020-04-15T19:17:23+09:00
2019-12-18T15:15:30+09:00
motoki8787
風景・街あるき
熊野は、さながら信仰のルツボと化したが、平安初期には、熊野三山が頭角を現した。それぞれが他の二神を祭り合い、三山体制を確立した。
その後、三山は周辺に様々な寺社を従えるが、中には、補陀落浄土(フダラク ジョウド・海の彼方の浄土)への帰らぬ船出を推奨する寺が現れ、民衆の耳目を集めた。江戸時代には、「熊野参詣曼荼羅」と呼ばれる絵図を携え、各地で熊野詣を宣伝する者が現れ、熊野古道(参詣道)はそのような気運のうちに黄金時代を迎える。
世界遺産の推薦理由書(文化庁)には、『熊野の神仏習合が東アジアの宗教文化の交流と発展を示している。』とあるが、そうそう簡単な話ではないだろう。
交流はあったが、版図を巡り争いが生じた。発展もあったが、その裏では敗者が衰退した。実際のところ、長い歴史の中で種々雑多が堆積沈殿し、しかも複雑にこんがらがっている。これを解き明かすことは難しいが、高密度に輻輳するゴチャ混ぜの歴史こそが、熊野最大の魅力だろう。
一方、この魅力が、天下の悪法、神仏分離令により大きく縮減したことを思うと、いつものように残念に思う。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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